器楽奏者の私が歌手よりもイタリア語を学ぶ訳
バルダッサーレ•カスティリオーネ Baldassarre Castiglione
こんにちは。ゆうです。
前回の続きで、またアフェットについて書く前に、
そこへいく足掛かりのような話をしましょう。
イタリアでバロック音楽を、特にイタリアものを演奏する際、
演奏上の語感に非常にうるさくこだわります。
実際、こちらに来てまだ1、2年目の頃、
オルガンの先生に
「君の弾く音楽は、『コンニチハ〜』だよ。Buongiorno(ブォンジョールノ)ではない。今のままだと何も伝わらないよ」と言われました。
私の留学目的は、ただ美しく弾く技術を学ぶのではなく、
楽譜に書かれていること、楽譜が物語るものを音にしたい
ということでしたので、
忙しい学校生活の合間を縫って、何とかイタリア語の勉強も続けました。
日常生活に差し障りがないくらいのレベルでは、やはりダメだと思ったので。
別の先生も
「君たち日本人は異なる言語圏から来ているのだから、
イタリアに住み続ける間は、イタリア語の勉強を続けるべきだよ」
と仰っていました。
これは何も、ヨーロッパの言語を話せなければ、
西洋音楽を演奏出来ないという話ではありません。
そこはパラドックス的な話になりますが、
音楽の魔法、力といいますか、
何も知らなくとも音楽の響きに私達が魅了されるのは事実ですし。
ただ、器楽奏者だからといって、
歌手達に比べ、語学の勉強を怠ってよいとはいえません。
とにかくイタリア人の演奏家達は、
音楽の語感、アクセントにうるさい。
その感覚を身につけたければ、
イタリア語を本格的に身につける他ありませんでした。
このような伝統は、16世紀前半に書かれた『宮廷人 il Cortigiano』という本に、既にその流れが見られます。
バルダッサーレ•カスティリオーネ Baldassarre Castiglioneという
イタリア・ルネサンス期の外交官であり作家であった人物が書いた本で、
尊い騎士精神を説いたものです。
そこには
「器楽奏者は、歌い手を伴奏する時と同じように、音楽の中に含まれる言葉の抑揚を知り、それを演奏に乗せるべきである」
と記しています。
時を同じくして、音楽家達の間にも同様の考えを自らの著書で述べる音楽家が増えていきます。
このような気運が高まるには、人文主義の時代に古代ローマの書物の発見と研究が多くなされたことが大きな一因となっていました。
少し長くなりましたので、それについては、また次回。